KO-SHI KAI

講志会

人形師・墨田区伝統工芸保存会会員

藤村 光環KOUKAN FUJIMURA

伝統を遺しながら、今に生きる人形作り

モノを作る仕事は、その人間の心持ちが出るから いい人形を作るには、いい人になるしかない

江戸時代からの伝統的な市松人形作り

昔からの形は残しながら、今に生きてるっていうか、今のスパイスで創造性を加えながら、市松人形作りをしてますね。
代々、うちの父までというのはいわゆる職人、人形作りの職人としての影の存在だったんですね。できたものをこう、大阪だと松屋町、東京だと蔵前の人形問屋さんに卸したりという形で、作ったお人形がどんな喜ばれ方をして、お客様がどんな風に求められるのか、というのは、一切見ることがほとんどなかったに等しいんですけど、問屋小売りやさんの注文に合わせた人形作りというのからもう少し、わたくし自身の作り手の顔も露出したいですし、お客様の喜び方もみたいな、というところで、わたしの代からは、卸という形態はとらずに、作品展や例えば百貨店のイベントなどで、展示して直接お客様にお見せして、よければ買っていただく、というスタイルに変わってきましたので、昔の人たちの時代のような、影の存在として、職人として、という生き方ではなくて、でも職人の精神は残しながら、いいものをなるべく早く作ることで、なるべく安く提供できるというそういうモノづくりの仕方を、代々受け継いできている、という先人たちの作り方もしながら、顔の見える、わたしの顔の見える人形作りをしてます。

僕が人形師になったきっかけは、簡単に言えば、家の仕事だったからっていうのもあるんですけども、五人兄弟の一番末っ子でして、全員男なんですが、一番上の兄とはもう17歳も違って、わたしが物心ついた時には、もう立派に跡取りのような方向で、兄はやってたんですけど、兄は43で、癌でなくなるんですが何をやってもいい、わたしだったんですね。高校でも大学でもすぐ上の兄貴も大学行って、お勤めだったんですけど、わたしはなぜか、一番上の長兄の跡取りっていう形じゃなくて、何やっても良かったんですがなりたくてなりました。人形屋に、人形師に。
16の時でした。ちょうど高校1年、2年になるころでした。ま、将来、男なんでそろそろ考え始めますね。
兄のように大学行って、いや、学問、勉強するよりなにかこう、人に接してる方が好きだな、商売でもって考えて、悩みながら学校へ。そんなオーバーなもんじゃないんですけど、してる間に子供のころから手伝わさせられていた、いやだった家の仕事がですね、日曜日も祭日も休みなしに働いてる親父の姿ってのが、あんなに嫌だったのに、ふっと魅力的に見えた瞬間があったんですね。これほんとに瞬間だったんです。で、うっかりやってみたい、って言っちゃったんですね。
やってみたいって言っちゃった手前、高校辞めるって自分で言い出しまして、で、もう即父と兄の間に座って、仕事を本格的に始めたというわけです。同じことの繰り返しを積み重ねながら身体が覚えていく仕事って多いんですけど、ま、立派に四十数年人形作っております。

江戸時代からモノ作りの町、墨田区伝統工芸保存会を作りました

わたしは東京の墨田区の本庄という地域なんですね。国技館があったり、それから、今降ってわいたように「スカイツリー」ができてもう3年すぎたんですけど、江戸時代から隅田川という川を挟んで隣りが浅草、日本橋。でわたしが住んでる墨田区本庄、向島、深川なんていう地域になるんですが、墨田区側っていうのは浅草のりが採れたくらいに浅瀬の海だったもんですから、そこを江戸幕府が埋め立てて、上下水道は川の向こうまでで、こっちは上下水道がない、っていうような感じで、そういう職人たちや売れない落語家たちが、住むのには家賃も安かったりとかいうような長屋もたくさんあったようですけど、270年間の江戸の平和な時代の中で、徐々に大きな町が本庄、今現在の墨田区という町が形成されて、時代の遍歴とともに新しい工業も増えていくんですけど、未だにわたしたちのような江戸時代からの職人がたくさん住んでる町です。墨田区は今年で35周年迎えるんですが、墨田区伝統工芸保存会という保存会を、うちの父たち、羽子板屋さんやべっこう屋さんや、象牙象嵌屋さんや、箸屋さんや、竹細工屋さんの仲間が集まって作りました。行政もですね、いわゆる墨田の成り立ちの基本の工業の方たちなんだっていうことで、随分、予算も立てて、応援もしてくださったり、海外にも我々を派遣したりというのと、あと、スカイツリーの中に墨田区伝統工芸保存会の実演販売コーナーを360日稼働するように作ってくれたりていう風な特性があります。

葛飾北斎の北斎館というのがつい、昨年の11月22日にやっと出来上がったんですけど。
葛飾北斎は墨田の本庄の生まれで、九十数回引っ越しを繰り返しながら、墨田に住んで、91歳の時に、逢瀬から帰って浅草の寺で亡くなる、これが台東区側にあるという風な、歴史なんですけど、ありとあらゆる絵師から人形師、羽子板屋までが住んでいた、町というモノづくりの町という特性ですね。

その時その時で若い方にも、何か響くようなものを作って理解していただけたら

日本の人形は非常に世界でもレベルが高いんですね。例えば、市松人形でいうと、生まれたお子さん、男の子生まれれば男、女の子生まれれば女っていう形で、身体もこんな形で男女がはっきりしてるんですけどそういう、なにかこう救急車も病院も発達していない時代に、子どもが健やかに育てっていうことで、ひな祭りもあったり、こういう市松人形を買ってくださったり身代わりのようなことを考えたりしたんですけど、今の時代にはこれ、なかなかピンとこない話でね。
今の若い方たちにとっては。今のアニメですとか、それをもとにしたフィギアですとか、どんどんどんどん日本の人形のボリュームとか種類も世界も増えていくですけど、そういう中で、伝統なんです、とか言ったってね?どこまでそれが受け入れられるか、っていうのはわかりませんけど、せっかくこの200年近く続いてきたものなんで、父にはよく言われたんですけが、飽きずに続けろと。
辞めたらアウトだ、と。辞めれば次はないんだから。
いい時にはいい時があるから。我慢して続けなさい、なんていうこともよく、親父言ってたし、その時その時で若い方、次のお客様にも、こう何か響くような市松人形、伝統的なお人形というものは作って見せて、理解していただけたらと思いながら、よく、さっきの保存会なんかで、みんな同じ悩みはみんなあるんですけどね。
実演、子どもたちに見せたり、学校訪問したり、なんていうこともしながら、手探りです。

あまり座右の銘的なことはですね、一介の職人ですんで、あまり考えたこともないんですけど、親父に聞いたんですね。
いい人形作るにはどうしたらいいんだろうって言ったら、これはもう、上手いコト言いやがったな、と思うんですが、それはもういい人になるしかないんだよ。って言ってましたね。ですから、モノを作る仕事っていうのは、そのニンゲンの心持ちっていうのが出るんでしょうね。
ま、いい人になることなんだそうです。

人形師・墨田区伝統工芸保存会会員 藤村 光環ふじむら こうかん

モノを作る仕事は、その人間の心持ちが出るから いい人形を作るには、いい人になるしかない。

公演の依頼や講師に関するご不明点などございましたら、お気軽にご連絡ください。

この講師について問い合わせる

PAGE TOP